変わりゆく形と日本文化2022 12 29
生活に根ざした思想
年末年始になると、日本人の誰もが自然と日本文化に触れることが多くなるのではないだろうか。初詣やおせちはもちろんのこと、年に一回、お正月にしか味わえないさまざまな風習に触れる機会がある。その時に、日本の文化の豊かさに気付かされる一方で、小さい頃から慣れ親しんでいることでも、表面上でしか理解してない事柄がたくさんあると感じる。例えば、門松は文字通り、本来は門に立てる松のことである。歳神様は生命力の象徴であり、その生命力は枯れることがなく、寒い冬でも青々とした松に依りつくと考えられているため、松でできているそうだ。また、歳神様をお迎えする際に、家がどこにあるか、わかりやすい目印のために松を門に飾り、座っていただく場所の床の間に鏡餅を供えるのだ。しかし、門松が何かと聞かれて、これだけのことをすぐ答えられる人はあまり多くない気がする。
俗に言う日本文化の原点は、今から約600年前の室町文化にあると言われ、室町時代に栄えた三大文化の一つである東山文化から、現代の日本人の価値観に近い生活様式や学問、芸術が生まれ、流行したとされる。侘び寂びは東山文化の真髄であり、つつましいながらも深みのある、生活に根ざした文化であった。また東山文化は禅宗と深く関わりがあり、その教えは武士から庶民階級にまで広がり、室町幕府は禅宗を統制し、日本各地に禅寺が建てられるようになる。修行や思想はもとより、作庭や生け花など、禅にもとづいた文化芸術がこの時代に始まったのは、知っている人が多いかもしれない。
京都 東山慈照寺「銀閣寺」この現代に繋がる日本文化の発展を支えた時代のキーマンの一人は、京都の銀閣寺を建てたことでも知られる、室町幕府第8代将軍の足利義政であり、当時高貴な身分の人のみが作ることが一般的であった日本文化を大衆にも浸透させ、文化人の育成に力を入れた人物だ。足利義政は東山文化の発展に貢献した人々には芸能の分野の称号である阿弥号を与え、その人たちは同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれていたそうだ。彼らは、身分的に卑賎視された人たちが多かったようだが、出家することにより、将軍や大名などの貴紳の側近に奉仕し、自らの体験を生かして活動することができたということだ。
同朋衆と生け花
日本史は学生の時からある程度触れてきたが、同朋衆と呼ばれた人たちに関しては特に習った覚えもなく、実は全く知らなかった。端的にいうと、同朋衆は当時の技能者集団であるのだが、武家社会の発展と結びつき、室町文化の担いとして大きな役割も果たしていた。現代に置き換えると、足利将軍家を支える掃除、配膳、酒奉行などの雑事役から高い知識教養と専門性を身につけたキュレーター、アートディレクター、デコレーターのような高度な技能を発揮する集団でもあった。様々な生活文化の原型がこの時期に生まれ、日本の芸術の骨格を成形し、その継承者を育成する相伝文化のしくみの中心にいたであろう彼らの存在を知り、興味がとても沸いた。
中でも、同朋衆が原型を作ったとされる生け花は、今では海外でも認知度が高くなりつつあり、日本人は誰もが知る伝統文化だ。日本は地形や気候という観点からとても豊かな自然が多い国であるため、地理的な条件からも、自然を崇拝する原始宗教が長い間信仰されていたが、冒頭に書いた門松しかり、大きな岩や樹木などに「神」が宿ると信じられてきた。そして、この日本独特の自然観と、神仏に捧げるための供花の文化が中国より伝来すると、やがて融合し「たて花」と呼ばれるようになる。
元々「立て花」という座敷飾りの鑑賞花は、花を花瓶に挿しただけで、形や決まりごとはなく、高く立つ「真(しん)」と「下草(したくさ)」で構成された形式的な花のことであったそうだ。それから、生け花の優れた才能を発揮する立阿弥(りゅうあみ)と文阿弥(もんあみ)という同朋衆たちや、後に池坊花道の元祖の池坊専慶などが現れ、次第に「立花(りっか)」という最も伝統ある生け花のスタイルが「立て花」から発展し生まれるのだ。その形は、いくつもの草や木が互いに競いながらも、調和されて作りあげられる高度な形であり、その一つの作品の中に自然の景観美を表現していると言える。時代と共に文化が発展し、鑑賞花へと移り変わっていく中で、同朋衆のような優れた才能と技術を持つ人々が現れ、花を生けるようになり、現代に続く生け花の原型となった。
生け花の図集「立花図并砂物」に載っている立花の図Photo via Wikimedia Commons
残り続ける文化
室町時代の歴史においては、度々会所という言葉がでてくるが、この言葉は人が集まるために設けられた部屋や建物のことを指し、室町時代に政治的にも文化的にもとても重要な役割を果たした。この時代の会所は、上流階級の私的な交際や遊興の場で、同朋衆は連歌会や茶会の仕切りなど、文芸や遊興の運営も任されたとされる。またこの時代には、中国との交易から得た珍重すべき文物を見せ合う「花合(はなあわせ)」や「七夕法楽(たなばたほうがく)」という会も会所で盛んに行われたそうだ。陳列、装飾された室内には器物も並べられ、その器物をよりよく見せるために花が生けられた。このような背景があり、和歌や連歌の席の座敷飾りとして、仏前供花を元にした飾りの形が整えられる。元々は飾りの一部であった花が次第に独立した作品として、鑑賞の対象という風潮が強くなっていったのだ。
同朋衆が数多く活躍した足利義政の時代だったが、活躍する場の基盤が戦争などの原因により急激に少なくなることで、徐々に終焉を迎えることになる。特に、長く続いた応仁の乱の頃から、日本の室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅様式である書院造の会所の大型化と小型化が始まったことが終焉に拍車をかけたらしい。「大型化」においては、広間の巨大化が進み、大きく立体的で豪華絢爛な空間が出現することに同朋衆の手法が対応できなくなる。一方で「小型化」においては、空間サイズが「四畳半」にまで縮小し、同朋衆が得意とする装飾の出番がなくなったからだそうだ。
こうしてみると、いかに場の形の変化が文化の変貌に影響するかがよくわかる。同朋衆は織田信長や豊富秀吉らの時代にも大名に仕えて働いたそうだが、その時代には職掌も変質したことにより室町時代においての役割とはまた違うものになっていたようだ。時代とともに文化は淘汰されているようにもみえるが、形を変えて残り続けているともいえる。新しい価値観やカルチャーにふれるとき、必ずその背景には歴史がある。その歴史に思いを馳せることが、豊かな文化を紡ぐ一歩なのではないだろうか。